家系
宮澤家の始祖の性は藤井と言い、元々京都から花巻へ行かれた人と伝えられています。そして、初代宮澤右八は花巻付近で呉服屋を営み、お店も大分繁盛していそうです。
時は流れ、賢治の父・宮澤政次郎が明治七年に生を受けました。
政次郎は父をよく助け、家業の質屋・古着屋を守り、時間があれば仏壇で手を合わせ、浄土真宗の教えに従い日々生活を送っていました。
そんな固さうに見える政次郎とは裏腹に、賢治の母であった宮澤イチはとても心柔らかな性格で、明るい笑顔で人に接していたと伝えられています。
そんな優しい母は、子供を寝かしつけるときに、いつも「ひとというものは、ひとのために何かをしてあげるために生まれてきたのス」と語り聞かせていたそうです。
賢治 零歳
賢治は明治九年(1896年)、岩手県稗貫郡に宮澤家の長男として生を受けました。賢治が生まれたとき、父政次郎は22歳、母イチは19歳。
賢治の生まれた年は、とても多くの災害が発生しました。
三陸では大津波が発生。18,158人の命が奪われ、その他にも大雨、大洪水、陸羽大地震など、天災が続いた中での賢治の出生だったのです。
参考文献 校本宮沢賢治全集
賢治、1歳~5歳までの成長の軌跡は見つかりません。
ただ、仏教を熱心に信仰されていた父・政次郎が、何度か花巻において、仏教講習会に参加し、政次郎本人も中心になって世話をしていたと記されています。
賢治 六歳
赤痢を患い、花巻町本城の隔離病舎に入りました。
赤痢の治療法として、その当時は患者には食事をさせない療法をとっておりましたが、幼かった賢治は空腹に我慢ができず、叔母が昔話を聞かせるなどして賢治を慰めていました。
また政次郎も、賢治の看病中に赤痢に感染した様で、胃腸が弱くなったと伝えられています。
そして、賢治の幼年期を知る本正氏の話によれば、宮澤家の長男であった賢治は、よその子とはあまり遊ばせてもらえず、庭の梅の木のブランコに乗ったり、一人で縄跳びをしたりしていたそうです。
賢治 七歳
賢治は花巻川口尋常小学校へ入学。
入学初日は、新しい着物に袴をつけ、新しいカバンを背負い、勇んで学校へ行ったそうですが、その途中に出くわしたった大きな犬に恐れおののき、その晩になってもあの時の恐ろしさが思い出され、なかなか寝付けず、挙げ句は庭へ出て歩き回ることがあったとか。そんな子供時代の逸話もあったそうです。
参考文献 校本宮沢賢治全集
賢治 八歳 (1904年)
小学校一年修業式。賢治の「通告表」では、全ての成績が「良」で、学校より賢治に本が与えられました。
この年の夏、川で遊んでいた子供2人が渦に巻き込まれ、一人は助かりましたが、一人は行方不明となり、町内でも船をだすなど大掛かりの捜索になりました。また、未だこの時八歳と幼かった賢治は、船の明かりを橋の上から見ていたそうです。
賢治 九歳
花巻川口尋常小学校三学年。
この頃、賢治は当時流行の絵葉書(日露戦争関係)を集めていました。
当時の賢治について関氏はこう語りました。
「賢治は幼少の時より礼儀正しく、言葉使いも大人の様に丁寧でした。また、親戚間でも、賢治といえば賢しいので大変評判でした。」
賢治 十歳
鉱物、主として石を採集、昆虫の標本作りに熱中していました。
この時、父政次郎32歳 母イチ29歳。
賢治 十一歳
賢治の担任八木氏が退職。
八木氏は小学校を去るときに、「立志」と題して生徒の将来の希望を書かせましたが、賢治は「私はお父さんの後を継いで、立ばな質屋の商人になります。」と書いたそうです。
賢治 十二歳
皇太子を迎えるため引率されて盛岡へ行きました。
賢治 十三歳
花城尋常小学校を優秀な成績で卒業。
同町内では、佐藤金治、小田島秀治、宮澤賢治らが「優秀な三治」として称えられました。また、この卒業式で、妹トシも模範生として表彰されました。
賢治は4月1日に県立盛岡中学校入学試験を受講。
体格検査、口頭試問の後、無事に入学が決定し、寄宿舎寮に入りました。
寮生は平均50~60名が生活しており、起床、食事、消灯の合図はラッパで知らせていたそうです。
寮内では、一年生はランプのほや掃除、布団の上げ下ろし、二年生は雑巾がけ、三年生はホウキでチョコチョコ掃いたと記されています。
この当時の賢治の寮生活は、未だ一年生だったので、寮内では、寮生とのランプ磨き、石油の補充などを行い、外に於いては、鉱物採集の為に、各地の山や公園などによく行っていたそうです。
参考文献 校本宮澤賢治全集
賢治 十四歳
賢治は時間を見つけては、山や森に出かけ、植物採集や、鉱物採集をしていたそうです。
この時の賢治を知る阿部氏はこう語っています。
「彼は四年間の寄宿生活を続けてたが、その寄宿舎では、上下階級が厳しく、一、二年生は、上級生のために、掃除、使い走り等、一切の雑用を勤める習わしでした。彼はそういう点では実に従順な下級生で、言われた仕事は何でも率先して行っていた為、上級生からも大変可愛がられ、重宝されていました。」と言う様なことが記されています。
賢治 十五歳 盛岡中学三年生
当時の賢治について。
宮沢嘉助氏の記述より
「賢さんはあまり成績が良くなかった、むしろ悪かった。悪いはずである。賢さんは学校の教科書など、殆ど勉強しなかった。彼が無心に勉強してると思って覗いて見ると、私には到底理解できないような哲学書を読んでいた。また、賢さんはよく教師に反抗していた。多分教え方に物足りなさを感じていたのかもしれない。」と言う様な事が記してあります。
また、この年に行われた、学校での記念祭の出来事を、K.H氏がこう記述しています。
「私と彼と、その友人と一緒に山に行った時の事である。山はすっかり紅葉しており、彼は見事な漆の紅葉を見つけ『俺は絶対漆に負けない』と、切り口から出る汁を顔一面に塗り付け、私たちをびっくりさせたはいいが、翌日真っ赤に顔がふくれ上がり、実家へ帰った。(この時は寄宿舎にいたため。)家の人たちも驚いて、色々と治療法を調べると、カニをすり潰して塗ればよいと書いてあったが、賢治はカニが可哀そうだからだと聞き入れず、志戸平温泉で療養し、十二日間学校を欠席していた。」と記してあります。
この頃から、賢治は流行りの琵琶などを練習したり、当時青少年に愛唱されていた、歌を好む青年に成長していたようです。
参考文献 校本宮沢賢治全集
賢治 十六歳
1月、学校恒例の兎狩りが黒石野で行われました。
5月、修学旅行へ出発。石巻一泊、塩釜一泊。
最終日は平泉で中尊寺を見学、その日の夜に盛岡に帰りました。
賢治は既に各地の山を散策していたが、岩手山に度々連れて行かれた人の話によれば、彼は山に登るときいつも「六根清浄、おぅ山繁盛」と唱えていたそうです。
8月1日~一週間、北山願教寺の盛岡仏教夏期講習会で、島地大等の法話を聴きました。
賢治 十七歳
恒例の兎狩りが行われました。
3月12日、祖母キン死亡、62歳。永らく病床にあり、世話になった人々に感謝し、悉く念仏を唱えて成仏したと記されています。
この頃、賢治は雄弁会で「らしく」という題で演説し、生徒は生徒らしく、先生は先生らしくしなければならないと言っていたそうです。
その年の秋、曹洞宗報恩寺の尾崎文永禅師について参禅し、賢治は頭を剃り、青々と丸坊主になりました。
賢治 十八歳 1914年
賢治は4月に鼻炎の手術を受けました。しかし、手術後高熱が続き、発疹チフスの疑いが起こり、その手当を受けたそうです。
そして、ある夜、岩手山の山神に腹を刺された夢を見、以後熱が下がったそうです。
退院後、賢治の友人らは速やかに進学する学校が決まり、賢治は上級校のへの志望が叶えられず、毎日憂鬱な日々を過ごしていました。
そんなノイローゼ気味の賢治を想い、父政次郎は、家業そのものの転向も考慮し、賢治が希望した、盛岡高等農林学校の受験を許しました。
また、この時に父の友人高橋氏から送られてきた「漢和対照 妙法蓮華経」を読んで異常な感動を受けたと記してあります。
そして、このお経本を読んで以来、賢治は生まれ変わったように元気になり、店番もいとわず受験勉強にも励んだそうです。
賢治 十九歳
盛岡市北山、教浄寺(時宗)に下宿し、受験勉強に打ち込んでいました。
この年の3月に盛岡高等学校・農林学科第2部を首席にて入学 。
この時から新しい寮生活が始まり、土日になると、地図やコンパス、ハンマーなどを持ち、鉱物等の標本採集に出かけていたそうです。
昨年同様に、夏に願教寺で行われた、夏期仏教講習会に友人を誘い参加。
島地大等の歎異抄法話を一週間聞く。
この時父政次郎41歳、母イチ38歳。
参考文献 校本宮沢賢治全集
賢治二十歳
昨年、盛岡高等学校を首席入学を果たした賢治は、三月に学校の特待生として選ばれ、授業料が免除になりました。
そして、授与式の次の日から農学科の修学旅行があり一同は京都へ向かいます。京都では、神社仏閣や京都御所、農場や鶏卵所などの京都の農業状態を勉強しました。
また、一行は箱根の関所付近を散策していました。しかし、初めての土地だったためか、関所までの距離が分からず、近くを歩いていた農夫に距離を尋ねると、その農夫は学生たちをからかうために距離を偽って教えたところ、賢治がいきなり大声で「馬鹿野郎、嘘をつくなっ」と叫んだそうです。
その後、賢治は浅草へ行った後、願教寺の島地大等に会い、化石採集を終えて寮へ帰りました。
また、この時一緒に寮で生活していた寮生の話によれば、賢治は毎朝必ずお経を唱え、寮の二階から毎朝力強い読経の声が流れていたそうです。
賢治はその後も友人を誘っては、島地大等の寺院に通い、法話会などに出席していたと記してあります。
勿論、時間を見つけては、北上山地の探訪をしたり、姫神山に登山したりと、友人を誘っては、山の散策に余念がありませんでした。
賢治のこうした奇抜な行動は、何時しか、彼自身が持っている感性や感覚を覚醒させていたのです。
その後、賢治は東京でドイツ語の夏期講習会に参加。
ほぼひと月滞在した残した賢治は「(中略)あれから私は銀座を遅くまで歩きました。もう前の様に灯りも私を動かしません。即ち東京に飽きたのでございます」と言葉を残しています。
賢治は岩手に帰郷し、学校の二学期の授業も始まりました。
その時の様子を山中氏はこう言っている。
「宮澤さんは見るからに温厚な方で、東北人特有の如何にも親切な人で、どちらかと言えば、女性的な感じの人、色白で気品のある中肉中背の好青年であり、学生時代から詩歌を好まれ感興が湧くと直ぐノートを出してよく書き留めておられた。(中略)私も宮澤さんと一緒に日曜日等には盛岡の西南にある南昌山の辺りや、鬼越山から小岩井牧場を通って繁温泉辺りをよく歩き回った。また、岩手山へも宮澤さんとも登山した。」
また、他の同寮である中嶋氏はこう語っていた。
「(中略)オレは体が弱いから夜は十時以降は勉強しないというのが口癖で、試験の時も早寝早起きを守っていました。そして、試験場には三十分前から出かけてゆくんです。私は一体何をしているんだろうと思い、一度あとをつけて行った事があるんですが、そっとドアを開けてみると、宮澤さんはストーブのそばに立って合掌し、静かにお経を唱えていました。私の方を見てニッコリ。けれどもそのままお経を続けて、今ではあの姿が例え様なく清く尊いものに思われるんです。」
参考文献 校本宮沢賢治全集
1月、賢治は父の仕事の用事で上京しますが、3日後に花巻に戻ります。
その後、日本女子大へ通っている妹トシに手紙を送っています。
「(中略) 当然学校はおしまいまでやらなければいけないのですから、決して急に学校を辞める様なことは思わないで、ゆっくり勉強していって下さい。私はまあ、大抵学校を出てからの仕事の見当もつきました。則ち木材の乾溜、製油、製薬の様な工業の仕事で、充分自身もあり、また、趣味もあることですから、これから私の学校の如何に係らず、決して心配させる様な事はありません」
4月、盛岡高農3年生
同月、父政次郎が町議会選挙に当選
7月、同人雑誌「アザリア」第一号発行
誌名のアザリアは洋ツツジで学校の温室等に咲いており、当時の季節の盛りの花であったようです。
同月・北海道見学旅行
9月、祖父喜助死去 1840年 生まれ 享年77歳
賢治が見とった事が、次の短歌に示されています。
香たきて ちちはは来るを待てる間に はやうすあかり そらをこめたり
足音は やがて近づきちちははも はらからもみなはせ入りにけり
夜はあけて うからつどえる町の家に 入れまつるとき にはかにかなし
10月下旬、弟清六、宮澤安太郎、岩田磯吉を連れて岩手登山。
弟清六の日記より、
「夕方岩手山麓に着き、まもなく柳沢の黄色のランプのついた小さな宿へ入り、『今夜2時まで泊めさせて下さい。4人ですが、何か食べさせて下さい』と頼み、そうめんを食べる。やがて2時半頃起こされ、寒さにガタガタ震えながらわらじを履き、松明を燃やし、『どうだ、松明は立派だろう。松の木にうつるとすごいだろう』と振り回しながら山を登る。そのうちに星は消え、猛然とどしゃ降りの雨が襲い、雷もほためき、松明も消え、腹まで濡れ、道が判らなくなる。賢治は狂気のように道を探したが、ついに諦め、また柳沢の宿まで戻る。朝明るくなって雨上がりの道を登ると、初雪が降っており、日光に眩く光っていた。三人の少年がおどりあがってかけ出すのを『おおい、あんまり駆けるなあ、止まれい』と叫ぶ」
同月、進路に悩んでいた関氏を、賢治が慰めます。
関氏の「賢治随聞」より、
「大正6年、当時19歳の私は自分の好むところの学問の道へも進むことが出来ず、暗い日々を送って居ました。ある日、岩手公園の直ぐ下の道で、賢治にばったり行き会いました。賢治は私の悩みに同情し、『それなら報恩寺にゆきましょう。あの和尚なら偽りは言いますまい。ぎりぎりの所を聞いてみましょう』といって一応いとこたちの居る下宿に立ち寄って夕食を食べ、それから暗い公園下の道をお寺にいそいだのでした。その時の賢治の服装は、絣(かすり)の袷(あわせ)に袴をつけ、凛々しい姿でした。庫裏の玄関に立った賢治は、太い響きのある声で『おたんの申す、おたんの申す』と呼びました。赫願の和尚とは前々から交渉はあったとみえ、もう親しく和尚と問答を始め『この人が人生に就いてあなたのお話を伺いたい為なのですが、どうかはっきりしたところをお聞かせ下さい』と言いました。」
この時の賢治と和尚のとりかわす問答がよくわからぬところもあり、そのうちに関は感動のあまり、わっと泣き出したといいます。
参考文献 校本宮沢賢治全集
しあわせ山 まんぷく寺












