一般に仏教と関わりを持っているとすれば、お葬式や法事、正月のお寺参り、あとは旅行に行ったついでの観光ぐらいではないでしょうか?
最近目まぐるしく加速する葬送ビジネス。
また、地方の過疎化や、世の中の景気の悪化により追い風を受ける、寺院に差し向けられるビジネスの影。
そして、今の僧侶が悩む、寺離れ、宗教離れ、僧侶離れ、と考えていても何も変わっていかない現実。
確かに、お寺に通っている方もたくさんいらっしゃるでしょうし、時々行われる法要には多くの人が参加されているかもしれません。しかし、日々忙しい一般の方からの寺院や僧侶へ対する視線は、とても厳しいものと推察します。
では、どうして、日本の寺院に対する一般の人々の想いがここまで薄らいでしまったのでしょうか。また、僧侶がこれからどのような行動を示すことで、人々の目線や考え方が変わっていくのか。
この課題に関して、このコーナーへ本気で投稿していただき、僧侶も、私たち一般人も一緒に勉強し考えていきたいと思います。
是非、これらに関するご意見などのご投稿をお願い致します!!
よほどの人でないと、葬式、法事とか初詣なんかでないとお寺にくこともないし、仏教と関わる機会もないという感じ。
うちは○○宗で小さい頃ばあちゃんが夜ぶつぶつ読経していたんだけど、不自然には感じなかった!
あと一部のカルトが利用??してる感がある。
ほんっと、すいません( ; ; )こんな答えでw
今の日本仏教は大きなポイントの上にいると思います。
形骸化した葬儀セレモニーに依存していた業種としての仏教が、1つには東日本大震災という災厄による打撃、そしてFacebookをはじめとするコミュニケーションツールによる様々な地域の接続(ユニット)の可能性という2つの異質なる要因により、大きな変革の時期を迎えています。
まずは前者の震災に於ける犠牲となられた方、そのご家族の方へのケア、という僧侶として行う大きな役割が生まれました。被災地に於いて、本来の「死を悼み、人を送る」という葬儀が行われていることがその要因として上げられます。痛みとの対話こそが「生きる場」における一大事であり、その救済無くして仏教の「いかに生きる」かは求められないという現実があると思います。否応なく押し寄せている現実の中で、私達僧侶が「何をすればいいのか」、「何が出来るのか」と自問自答する求道の時間が今、訪れています。
そして、このFacebookに代表されるSNSによって、これまではそれぞれの地域でローカルな活動に終始していた私達が、「つながること」が可能となりました。
スタンドアローンな個としての存在から、「求道」を共有できる仲間との共闘とも言うべき切磋琢磨出来る環境を得ることが出来ました。
その結果、一部の僧侶が直面する問題や事象に関して他人事では無しに真摯に考慮する機会を得られ、また、異なる地域や文化を持つ者同士が情報を共有し、お互いの意見に発憤するチャンスが生まれています。そこから新たなうねりが生まれることを私は願ってしまいます。これまで、図らずもマイノリティーであった個々の正統派こそがオピニオンリーダーになるべき機会が訪れているのではないかとさえ感じています。
残念ながら、教団という組織の体たらくは言うまでも無く、封建的なしがらみの中で生きながらえることに汲々としています。葬式仏教を出会いのための唯一無二のチャンスから単なる集金事業(生活のための)へと貶めた第一因子でもあります。そこでの改変を待つことよりも、寧ろ今は個々の動きをこのグローバルなツールでトレースし、つなげていくことで何等かの動きを形作ることが可能ではないかと感じています。
今こそ、職業としての僧侶から生き方としての僧侶への道が開き始めていると感じています。ただ、闇雲に戒律や教典に従うことを旨とするのではなく、求道する今の私の有り様こそが「いかに生きるのか」への道となる、そんなポイントの上にいるのだと感じています。
この大きなうねりは、少なくとも私自身の中での世界観を急速に広めつつあり、さらに、変わらなければならない自己と対峙する日々が始まっています。
しあわせ山 まんぷく寺












